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書評:遠藤周作さん『人生の踏み絵』。「愛」とは何か。実践可能なのか? に悩む。

書評:遠藤周作さん『人生の踏み絵』。「愛」とは何か。実践可能なのか? に悩む。

祖父と祖母がクリスチャンだった影響で、私は中学~大学時代に遠藤周作さんの本をよく読みました。

『海と毒薬』や『おバカさん』、狐狸庵もの、『深い河』・・・。

純文学から軽めのエッセイまで、これらの本のなかには「人間とはなにか」という深い問いが随所に顔を出していました。

しかし。その深い問いを受け止めきれなかった私はそのまま大人になり、ろくでもない社会人になってしまいました・・・。

それはともかく、先日久しぶりに本屋で遠藤周作さんの本を買い、改めて考え込まされることが多くありました。

今日は私なりに感想を書き留めておこうと思います。

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遠藤周作さんの語る「踏み絵」。「弱い人」への優しい眼差し

代表作『沈黙』は、日本に布教にやってきた宣教師が捕縛され、拷問に耐えかねて結局踏み絵を踏んでしまうという物語でした。
残酷な拷問のさなか、神は降臨せず、宣教師を救うわけでもなく、ただただ沈黙していました。

果たして神は本当にいるのか? この永遠の問いに対して、だれもはっきりとした答えを出した人は誰もいません。
遠藤周作さんはこう語っています。
実は『沈黙』というタイトルにはもう一つの意味がありました。
彼らも人間である以上、私は彼らに声を与えたかったのです。彼らを沈黙の灰の中から呼び起こしたかった。沈黙の灰をかき集めて、彼らの声を聴きたい。そういう意味で『沈黙』という題をつけました。併せて私は、そういう迫害時代に多くの嘆きがあり、多くの血が流れたにもかかわらず、なぜ神は黙っていたのかという、「神の沈黙」とも重ねたのです。
この小説は、たとえば殉教者を英雄視して称えるようなお話にすることもできなくはなかったはずです(ハリウッド映画ならそういう展開になりがち)。
ところが「転んだ」者を主人公にし、その転んだ者が「私の顔を踏みなさい」と語りかけるイエスの声を小説の頂点に配置し、「弱き者」(私達も同じ状況に置かれたら踏むに決まっていますが)をも思いやる「愛」の深さを表現していた・・・。そう遠藤周作さんは講演会で語っていました。

「転んだ」者は教会にとっては都合が悪いので、じつは記録がほとんど残されていません。
それでもあえて彼らを主人公にしたわけですから、遠藤周作さんの並々ならぬ意欲が伺われるではありませんか。

キリスト教の「愛」とは

思えば、遠藤周作さんは『イエスの誕生』という本のなかでも、繰り返し繰り返し、イエスは見捨てられた人、たとえば娼婦や収税人、重い病にかかった者たちといつも語り合い、傍らにいたということを強調していました(平成の30年間、天皇陛下(上皇さま)が財界や政界の要人とではなく、むしろ全国各地で発生した災害の被災者と積極的にお声をかけられ、さらには自分が引き起こしたわけでもない太平洋戦争の激戦地を訪問して鎮魂の祈りを捧げられたようなものでしょうか)。

たしかに新約聖書の福音書では、イエスは王侯貴族と面会して贅沢を・・・という描写は一切なく、常に「弱者」と呼ばれる人たちをなんとかして救済しようとしていた、救えなかったにせよ常に傍らにいようとしたという描写が続きます。

ここに「愛」がある、そう遠藤周作さんは説いています。
だって、考えてごらんなさい。美しいものとか、魅力のあるものに心を惹かれるのは馬鹿でもできますけど、色あせたもの、くたびれたもの、見飽きたものに心惹かれるとか、保有し続けるとかって、才能と努力がいるでしょう?
(キリスト教で)離婚と自殺が禁止されているのは、そこには愛がないからです。魅力あるもの、美しいものに惹かれるのは情熱であって、愛じゃないと。しかし魅力のないもの、色褪せたもの、つらいものを、なお捨てないということが愛だ、というのがキリスト教の考え方です。

こうした「愛」は、たしかに普段私達が考えている「愛」と180度異なっています。
もはや愛する情熱の冷めた妻(夫)や、愛着が持てないが果たさなければならない仕事、こうしたものと辛抱強く向き合い、最後まで投げ出さないこと。ここまで全うできて初めて「愛」と言いうる――そういうことになってしまいます。

キリスト教の「愛」は私達に実践可能だろうか?

私はクリスチャンでも何でもありませんが、やはりこうした「愛」は実践できるのだろうか? という疑問からはどうしても目をそらすことができません。

遠藤周作さんの福音書の解釈では、イエスの弟子たちは、自分がイエスと行動を伴にしたことを不問に付してもらう代わりに、師を売ったと見ています。(『イエスの生涯』より)
ユダだけではなく、ペテロを始めとして全員が助かりたい一心で師を見捨てた、そこに人としての弱さがあった・・・。
そう考えています。

この点では『沈黙』で「転んだ」宣教師はペテロたちと同じであり、私自身も同じ状況だったら確実に同じことをしたと思います。

そういう「弱い」私は、上に引用したような忍耐強い愛を他者に対して実践できるか・・・。
正直、自信がありません。(中学生のときの私も、そこから20年以上経過した今もそうです。)

久しぶりに読んだ遠藤周作さんの本。重い問いを突きつけられてしまいました・・・。

引用元はこちらです。記事に関するご質問は引用元へお問い合わせください。http://bocchi-science.net/archives/20378370.html

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