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仏教の教えから脇見恐怖症を考える

仏教の教えから脇見恐怖症を考える

脇見恐怖症について理解を深める上で、仏教を学ぶことが1つの参考になると考えています。

仏教は、「内面的な苦悩につきまとわれたとき、人はどうすればいいのか?」「どうすれば苦悩から解放され、心の平安を手に入れることができるのか?」といった、心の普遍的な問題をテーマにしてきました。

こういった問題はまさに、脇見恐怖症に陥った人が直面することではないでしょうか。

脇見恐怖症を含む神経症の治療として定番の「森田療法」も、その考え方や治療方法には仏教の影響が見られます。

私も仏教については以前から興味があり、いくつか本も読んできました。特によく読んだのは、仏教学の第一人者とされる中村元や、日本の禅文化を海外に広めた鈴木大拙などの著作です。浄土真宗を開祖した親鸞の「歎異抄」を始めとして、仏教書の原典もいくつか読みました。

そうやって仏教関連の書籍を読んでいると、思わずはっとする気付きを得られることも多いですが、仏教の宗派や解釈の違いが非常に複雑なため、ディテールに入り込んでしまうときりがないことがわかります。

そんな中、近年ベストセラーになった「サピエンス全史」が、仏教の開祖とされる釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の思想の本質をわかりやすくまとめていました。著者はイスラエルの歴史学者ですが、仏教を非常に客観的な視点で理解しようと努めたためか、意外にも本質を的確に説明しているように思いました。ちょっと長くなりますが以下に引用します。

仏教の中心的存在は神ではなくゴータマ・シッダールタという人間だ。仏教の伝承によると、ゴータマは紀元前五〇〇年ごろの、ヒマラヤの小王国の王子だったという。若いころこの王子は自分の周りの至る所でみられる苦しみに深く心を悩ませた。彼は老若男女がみな、戦争や飢饉のような折々の災難ばかりではなく、不安や落胆、欲求不満といった、すべて人間の境遇とは切り離しようのなさそうなものにも苦しんでいるのを目にした。人々は富や権力を追い求め、知識や財産を獲得し、息子や娘をもうけ、家や御殿を建てる。それなのに、何を成し遂げようと、けっして満足しない。貧しい暮らしを送る者は富を夢見る。巨万の富を持っている者はその倍を欲しがる。倍が手に入れば一〇倍を欲しがる。金持ちで高名な人さえ、満足していることは珍しい。彼らもたえず不安や心配につきまとわれ、挙句の果てに病気や老齢、死によってそれに終止符を打つ。人が蓄え、積み上げたものはすべて、煙のように消えてなくなる。人生は意味のない、愚かで激しい生存競争だ。だが、どうすればそこから抜け出せるのか?

ゴータマは二九歳のとき家族も財産も後に残して、夜中に王宮を抜け出した。住む場所もない放浪者としてインド北部を歩き回り、苦しみから逃れる方法を探した。修行所をいくつも訪ね、聖者の教えを乞うたものの、完全には解脱できなかた。つねに何かしら不満が残るのだった。だが彼は絶望しなかった。完全な解脱の方法を見つけるまで、苦しみについて独自に吟味することを決心した。そして、人間の苦悩の本質や原因、救済の探求に六年を費やした後、ついに、苦しみは不運や社会的不正義、神の気まぐれによって生じるのではないことを悟った。苦しみは本人の心の振る舞いの様式から生じるのだった。

心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴータマの悟りだった。心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。痛みのような不快なものを経験したときには、これが非常に明白になる。痛みが続いているかぎり、私たちは不満で、何としてもその痛みをなくそうとする。だが、快いものを経験したときにさえ、私たちはけっして満足しない。その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする。人々は愛する人を見つけることもついて何年も夢見るが、見つけたときに満足することは稀だ。相手が離れていきはしないか不安になる人もいれば、たいしたことのない相手でよしとしてしまったと感じ、もっと良い人を見つけられたのではないかと悔やむ人もいる。周知のとおり、不安を感じながら悔やんでもいる人さえいる。

偉大な神々は雨を降らせてくれるし、社会的機関は正義や医療を提供してくれるし、幸運な偶然で大金持ちになる人もいるが、そのどれにも、私たちの基本的な精神パターンを変えることはできない。そのため、どれほど偉い王であっても不安を抱え、たえず悲しみや苦悩から逃げ回り、より大きな喜びを永遠に追い求めて生きる定めにある。

ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。じつは、悲しさの中には豊かさもありうる。喜びを経験しても、その喜びが長続きして強まることを渇愛しなければ、心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。

だが心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか? どうすれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、痛みを痛みとして受け容れられるのか? ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。この修行で心を鍛え、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。

ゴータマはこの瞑想術の基礎を、人々が実際の経験に集中し、渇愛や空想に陥るのを避けやすくなるように意図された一揃いの倫理的規則に置いた。彼は弟子たちに、殺生や邪淫、窃盗を避けるように教えた。そうした行為は必ず(権力や官能的快楽や富への)渇愛の火を掻き立てるからだ。渇愛の火を完全に消してしまえば、それに代わって完全な満足と平穏の状態が訪れる。それが「涅槃(ねはん)」として知られるものだ(この言葉の文字どおりの意味は、「消化」だ)。涅槃の境地に達した人々は、あらゆる苦しみからすっかり解放される。彼らは空想や迷いとは無縁で、この上ない明瞭さをもって現実を経験する。依然として不快感や痛みを経験することはほぼ確実だが、そうした経験のせいで苦悩に陥ることはない。渇愛しない人は苦しみようがないのだ。

仏教の伝承によると、ゴータマ自身は涅槃の境地に達し、苦しみから完全に解放されたという。その後、「仏陀(ブッダ)」と呼ばれるようになった。ブッダとは、「悟りを開いた人」を意味する。ブッダは誰もが苦しみから解放されるように、自分の発見を他の人々に説くのに残りの人生を捧げた。彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。

「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な自然の法則と見なしている。「苦しみは渇愛から生じる」というこの法則は、現代物理学ではEがつねにmc^2と等しいのとまったく同じで、つねにどこでも正しい。仏教徒とは、この法則を信じ、それを自らの全活動の支えとしている人々だ。一方、神への信仰は、彼らにとってそれほど重要ではない。一神教の第一原理は、「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。それに対して、仏教の第一原理は、「苦しみは存在する。それからどう逃れるか?」だ。

仏教は神々の存在を否定しない(神々は、雨や勝利をもたらすことのできる強力な存在として説明されている)が、苦しみは渇愛から生じるという法則には何の影響力も持たない。もし、ある人の心があらゆる渇愛と無縁であれば、どんな神もその人を苦悩に陥れることはできない。逆に、ある人の心にいったん渇愛が生じたら、宇宙の神々が全員揃っても、その人を苦しみから救うことはできない。

とはいえ、一神教と非常によく似て、仏教のような近代以前の自然法則の宗教は、神々の崇拝を完全に捨て去ることはついになかった。仏教は、経済的繁栄や政治的権力のような途中の地点ではなく、苦しみからの完全な解放という究極の目的地を目指すように人々を促した。だが、仏教徒の九九パーセントは涅槃の境地に達しなかったし、いつか来世でそこに達しようと望んでも、現世の生活のほとんどを平凡な目標の達成に捧げた。そこで彼らは、インドではヒンドゥー教の神々、チベットのボン教の神々、日本では神道の神々というふうに、多様な神を崇拝し続けた。

そのうえ、時がたつうちに、いくつかの仏教の宗派は、さまざまな仏や菩薩を生み出した。これらは、苦しみからの完全な解脱を達成する能力を持つ人間や、人間以外の存在なのだが、依然として苦悩の環に取りこめられている無数の存在を救うために、憐みからその解脱を慎んでいるのだ。多くの仏教徒は、神々を崇拝する代わりに、悟りを開いたこれらの仏や菩薩を崇拝するようになり、涅槃に入るだけではなく俗世の問題を処理するのも助けてくれるよう祈り始めた。そのため東アジア各地で、祈りや色鮮やかな花、芳ばしいお香、米やお菓子の供え物と引き換えに、雨を降らしたり、疫病を抑えたり、果ては血なまぐさい戦争に勝ったりさえするために時間を費やす仏や菩薩が多く見られる。

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史(下) 文明の構造と人類の幸福」 第12章 宗教という超人間的秩序

この記述をふまえると、脇見恐怖症と仏教の間に、以下のような接点があると思いました。

  • 苦しみの本質は、外から与えられるものではなく、自分自身の心に原因があるということです。脇見恐怖で悩む多くの人も、発症のきっかけは外に求めつつも、症状を生んだり深化させていくのは、自分の心(脳の仕組み)の偏りによるものだと考える人が多いように思います。
  • 釈迦は、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」に注意を向けるべきだと説きました。心の苦悩から逃れるためには、欲望や不安に取り込まれてしまうのではなく、心を鍛えてあるがままに今の現実を受け止めることが大切だと言います。(これは森田療法が「あるがまま」を説くのと同一かもしれません) 脇見恐怖症においても、理想の自分の姿、つまり、周囲の人に緊張せず、視線におかしな点もなく、自然に振る舞いたいという強い欲求を持つことが多いです。ところが実際はそれを実現できず、視線にとらわれて理想とのギャップに苦しみます。苦しむほどさらに視線への意識が強まり、泥沼にはまっていくのです。脇見恐怖に悩む多くの人が、「今に注意を向ける」「現実を受け入れる」ことができる自分になりたいと感じていると思います。

後者に関しては曖昧な点も多く、次々に疑問が湧くと思います。「あるがまま」とはどんな状態を指すのか?「現実を受け入れる」ためにはどのようにしたらいいのか? 

とはいえ、仏教の教えを通じてここまで考えるを推し進めることができるだけでも、大きな意義を感じます。またここに挙げた内容は、仏教の教えのほんの最初のステップに過ぎません。さらに仏教を学べば、脇見恐怖症への理解も深めることができるように思います。

P.S. 他にも「こんな本が役に立った」とか、仏教に関連して「こんな考え方もある」といったご意見をいただけたら、とても嬉しいです!自己紹介欄に記載したメールアドレスから、ご連絡をお待ちしています。

引用元はこちらです。記事に関するご質問は引用元へお問い合わせください。http://blog.livedoor.jp/wakimikyoufu/archives/54863258.html

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